はっぴいえんどが日本語の「ロック」の出発点としてよく取り上げられることがある。ロックのビートに日本語を乗せるという問題が生まれる歴史的な背景を考えてみると、わたしたちが日本語で歌うということは、外国からの文化を取り入れるときの「日本化」の技術としてあるということがみえてくる。1960年代以降の「ロック」に限らず、日本語で歌う「ジャズ」や日本語で歌う「西洋音楽」があり、日本語で歌うという試みの延長線上に、現在の日本語のポピュラーミュージックがある。わたしたちがピアノなどの「伴奏」に合わせて日本語で歌うことができるのも、ギターを片手に「日本語の歌」を作ることができるのも、西洋的な音楽をどのように歌うかという明治時代に始まる「唱歌」の試みがあったからだ。
先の記事の「むすんでひらいて」は、その西洋的なメロディの音楽的な系譜と、そのメロディが各国に流入するときの「替え歌」の例だったが、田村虎蔵の「唱歌」は西洋的な音楽での作詞にも関わる、日本語による作詞作曲の問題である。
・「言文一致」の歌としての問題
明治の頃に、日本語の書き言葉と話し言葉を一致させる「言文一致」の試みがあったことは、文学者たちの作品からよく知られている。この「言文一致」を、もっと広い観点から捉えるなら、国際的な視野を持つようになった幕末から明治の日本における、「欧化主義」を経て「和魂洋才」「和洋折衷」へと至る、政治と文化の関わりの歴史ということになるだろう。その文化には、書き言葉の「文学」だけでなく、歌舞伎における「演劇改良運動」や、日本語で歌う「唱歌」の試みも含まれる。つまり、「言文一致」は、書き言葉だけでなく、話し言葉や歌う言葉を改めようとする問題でもある。
鎌谷静男『尋常小学読本唱歌編纂秘史』は、「言文一致唱歌の出現」という章から始まり、その重要人物であった田村虎蔵についてのいくつかの問題を示している。正確には匂わせているというべきだろうその「問題」とは、当時の学校教育や音楽専門家の裏事情のようなもので、「唱歌」社会学とでもいえる「秘史」である。それは、芸術的、学術的な意図によって導かれていたというよりは、「唱歌」という業界での少々スキャンダラスな問題である。
「唱歌」といえば、文学者たちによる「童謡」の観点からすれば、明治の学校に始まる「唱歌」という教科で教えられた歌ということになるが、まだ国産のレコードがなかった明治時代においては、出版によって「流行」した側面もある。明治43年にいわゆる「文部省唱歌」としての『尋常小学読本唱歌』が出るまでは、標準的な「国定」の教科書が作られていない状況が続き、様々な出版社から「唱歌」集が出版され、明治30年代の「言文一致」運動の頃は、田村虎蔵の「唱歌」の本はよく売れていたのである。それらの「唱歌」も学校で使えることを売りとしていたのだが、渡辺裕『歌う国民』で当時の「実用的な歌」の歴史が示されているように、芸術的な音楽とは異なる実用的な歌としての様々な「唱歌」が出版社や書店から出現していた。例えば、明治33年に三木楽器店から出版された「汽笛一声新橋の」の歌い出しで知られる『地理教育鉄道唱歌』は、当時流行した唱歌のひとつだった。東海道編にあたる「第一集」は、十万部以上売れていたとされる。よく知られている第一集のメロディは、大阪師範学校教諭だった多梅稚が作曲している。東北編では田村虎蔵が作曲している。(金田一晴彦、安西愛子編『日本の唱歌(上)』121ページ)
『尋常小学読本唱歌編纂秘史』は、兵庫県師範学校教諭だった田村虎蔵が、言文一致の時代の「唱歌」集の出版で得た名声によって、東京高等師範学校訓導兼東京音楽学校助教授へと栄転し、『音楽界』などの専門誌で「唱歌」について発言していたことを取り上げている。この本が匂わせている問題は、明治35年の「教科書疑獄事件(当時、教科書の採択には検定制度がとられており、審査委員の収賄が疑われた)」の頃に、出版社が競うように出版していた「唱歌」の専門家たちの行動に垣間見える、利害関係や派閥争いである。田村虎蔵は、言文一致の「唱歌」集で成功し、その自負があるからか、文部省での国定「唱歌」教科書の動きを察知するや、現場での経験からの意見を述べるようになり、その選定の委員に自分が選ばれなかったと知るや、激烈な批判を公にした。『尋常小学読本唱歌編纂秘史』には、その頃の田村虎蔵の激しい文言が引用されている。自分を除け者にしたことに対する個人的な憤慨のようにも思われる部分を差し引けば、田村虎蔵が問題にしていたのは、それまでの「唱歌」の古色蒼然たる歌詞はこどもが歌うのに適していないということや、学校の現場では一部の歌しか使われていないということであり、その点では「童謡」の運動と共通するのかもしれない。しかし、教科書をめぐる出版社の間での争いがあった「唱歌」が定まっていく過程において、「言文一致」を武器にしていた田村虎蔵の唱歌が、果たして本当に合理的な歌であったのかは定かではない。
・東京音楽学校 西洋の理論と「和洋折衷」「和魂洋才」の問題
いつの時代でも、ひとりの教師が学校現場の実情を述べるパフォーマンスが専門家の意見として説得力を持つことがある。「唱歌」の第一人者としての田村虎蔵の名声は、出版した「唱歌」集が売れていたということだけでなく、近代的な学校の「教育」という専門家の集団のなかで「言文一致」の唱歌が認められていった過程にも関係している。『尋常小学読本唱歌編纂秘史』では、東京高等師範付属小学校での田村虎蔵の「唱歌」の公開実演に全国から教師たちが参観に来ており、彼らが田村の「言文一致」の唱歌を賞賛していたことが紹介されている。いわば、ミュージシャンズミュージシャンならぬ、教師の教師(まさしく高等師範!)としての評価を田村虎蔵が得ていたことがうかがえる。その授業の「公開実演」という場の、教育の専門家への影響というのは、唱歌としての合理性そのものよりも、「教師」としての名声をもたらした社会的な要因のひとつであろう。加えて、言文一致の唱歌の教師として名声を得ていた田村虎蔵が、1879年(明治12年)に文部省音楽取調掛によって編纂された唱歌が学校の行事で使われていないことや、出版されていた唱歌が教育的には使えないという実情を述べることは、教師の間での唱歌に対する不満や悪評に影響を与えていただろう。教科書の採択には直接関わっていなくても、このような手だてによって、既存の「唱歌」を問題にすることはできる。自作の「唱歌」が学校で使われる歌として合理的かどうかには関係ないことであるが、現場の教師による唱歌の選択には関わるだろう。
言文一致「唱歌」の第一人者としての地位にあった田村虎蔵は、東京音楽学校出身の「音楽」専門家の一人でもあった。したがって、東京音楽学校の前身にあたる文部省音楽取調掛によって編纂されていた既存の「唱歌」を、学校現場では使えないものとして問題にするということは、東京音楽学校の役割とその出身者たちとの関係にも多少なりとも関わることになる。『尋常小学読本唱歌編纂秘史』は、田村虎蔵が東京音楽学校の学生だった頃に、外国人教師を追い出そうとした一件について一章を割いているが、これは何を意味するのか、はっきりとは読み取れないところがある。
むしろ、東京音楽学校の関係者としての田村虎蔵の問題として、より明白なことのように思われるのは、田村虎蔵の唱歌や論考について、和声=西洋音楽の理論を重んじる立場からの痛烈な批判があったということである。田村の唱歌は、西洋的な音楽としては自然な伴奏がつけられないところがあり、また彼の専門家としての学識にも疑わしいところがあるという指摘である。当時としては、西洋音楽の理論を正しく習得したことを意味する和声の知識を持つ者から、西洋的な音楽としてはなっていないとつっこまれたのである。
しかし、音楽の専門家として恥をかかされたかのようにみえるにもかかわらず、田村虎蔵は当時の音楽の専門家として重要なのは「和洋折衷」という課題であると主張している。明治の「唱歌」の創始者といえる伊澤修二のエピソードにもあるように、当時の日本人が西洋的な音階を歌うことは難しかったという問題があり、西洋音楽としては自然ではあっても、日本のこどもにとっては自然ではないのではないか、この学年では歌えないのではないかなどの配慮をしなくてはならないという発想が、それはそれで「唱歌」としての音楽的な合理性として説得力を持っていた。言文一致の唱歌=和洋折衷の歌として、専門家としての立場を固めていけば、多少の和声的な問題があるとしても、独自の教育的な解釈(日本人に対する配慮)で乗り越えてしまったり、新たな「試み」として肯定することができる。
安田寛『「唱歌」という奇跡 十二の物語 讃美歌と近代化の間で』で示されているように、唱歌には讃美歌が「替え歌」によって日本に流入したという歴史的側面もある。讃美歌の影響という背景から明治時代の唱歌を見るならば、歌詞がどうであれ和声的に自然である方が好ましいことになるであろう。一方、田村虎蔵の「言文一致」唱歌の立場は、たとえ和声的におかしいところがあると言われても、日本人が歌うことを考慮して改めているのだと主張することができる。明治30年代後半以降の唱歌については、それぞれの側面を聴き取るだけでなく、このような「西洋音楽派」と「和洋折衷派」の論争の産物としてみるべきだろう。「文部省唱歌」の編纂者であった島崎赤太郎や岡野貞一がクリスチャンでオルガニストであったこと、『尋常小学唱歌』一年にでてくる『日の丸の旗』(岡野貞一作曲とされる曲)などの例から、『尋常小学読本唱歌編纂秘史』は、「将来の教育音楽は洋楽が主流になるべきだと考えていた島崎や岡野たちにとってはドレミファソが歌えないこと自体が不自然なのであり、これらの曲は、あえて強調すべき格好な啓発教材であると思っていたに違いない(64ページ)」として、西洋音楽派の目論見を強調している。しかしながら、鉄道唱歌のメロディが国語の教科書の文章につけられて歌われた例もあるので、「文部省唱歌」の楽譜だけで唱歌のあり方が決まってしまったのではない。実際のところは、「和洋折衷」の観点から、文部省唱歌を分析し、日本語の歌詞とメロディを改め、その理由をことばで埋め、口によって伝承する(教える)などの過程がある。(『尋常小学読本唱歌編纂秘史』には、「反面、島崎赤太郎や岡野貞一らが、凡そ書き物らしいものを残さず、ただ黙々と所信を推し進めて行った気概を思う。その精神的支柱にはキリスト教が…(65ページ)」と書かれている。どうもこの本は、このような書き方が多い。)この論争は、「文部省唱歌」の楽譜を誰が作ったかという問題だけで終わるものではなく、唱歌に関わっていた社会的な事柄を含め、西洋音楽派と和洋折衷派の仕事がごちゃまぜになっているという結果をもたらしている。「唱歌」は、讃美歌の刷り込みでも和洋折衷の達成でもなく、いろんな要素がてんこ盛りの学校現場において「日本語で歌う」ということでくくっているだけの混淆なのである。
・「唱歌」についての指導要領の世界
唱歌の「自然さ」をめぐる論争や、それぞれの唱歌の検討がなされ、同時に、唱歌についての文章が専門家の間で共有され、その結果として、唱歌についての指導要領を解説する本も残されている。このような唱歌を解釈することばによって、和声=西洋の理論としての不自然さを問われるだけでは決して屈することのない「和洋折衷」が、唱歌を成立させるための要素として積み重ねられている。つまり、唱歌には、原曲の楽譜だけではなく、唱歌についてのことばの歴史がある。現場の教師向けの「唱歌」についての解説本には、教育的な配慮をもとにした楽曲分析や好ましい演奏表現について書かれている。知らず知らずのうちに、唱歌には、伝承的、口承的な継承が含まれている可能性がある。
・田村虎蔵の時代、その「唱歌」の後
唱歌といえば「文部省唱歌」となったのは、明治末期に「国定」の唱歌教科書が出てからのことであり、それまでの間には出版社から競うように売られていた唱歌の時代があった。その時代には、言文一致の試みが説得力を持ち、田村虎蔵のような名声を得た者がいた。文部省からではない唱歌は、学校で使われる唱歌としては傍流になってしまったかもしれないが、「実用的な歌」というポピュラーミュージックとしてはとても重要な流れを作ったといえる。言語明瞭で意味不明な日本語の歌が作れるのは、もしかしたら、田村虎蔵の唱歌のおかげかもしれない。
文献
鎌谷静男『尋常小学読本唱歌編纂秘史』 文芸社 2001年
渡辺裕『歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ』 中央公論新社(中公新書) 2010年
金田一晴彦、安西愛子編『日本の唱歌(上) 明治篇』 講談社(講談社文庫) 1977年
安田寛『「唱歌」という奇跡 十二の物語―讃美歌と近代化の間で』 文藝春秋(文春新書) 2003年